『去年はいい年になるだろう』山本弘

去年はいい年になるだろう(上) (PHP文芸文庫)

去年はいい年になるだろう(上) (PHP文芸文庫)

いつものようにネタバレ全開です。

2001年9月11日に「ガーディアン」と名乗るアンドロイドたちが「人類を不幸な未来から守る」という大義名分の元に24世紀からやってきたというお話。これが少し変わっているのは、作者自身が登場するということ。そして何より可能な限り現実に即した出来事をベースに、語られる物語であるのが面白い点ですね。ユーモアを多少理解するアンドロイドが「ええ…対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース。それが私」なんて言ってしまうあたり好きです。

ここでのアンドロイドはアシモフの三原則のように人間のために存在するロボットであること、つまり彼らの最大欲求は人間を守ることにある。そして彼らは、24世紀の今よりもずっと人が理性的になった世界で、過去の人類を救おうと思った人々によって作られている。でも、「人類を救う」って何?ことがあります。

彼らは「未来に起こるであろう悲劇から、人間が自分たちの手で回避することが不可能である事柄から守る」という。

魔法先生ネギま!(38)<完> (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(38)<完> (講談社コミックス)

ちょうど去年に連載終了した魔法先生ネギま!なんかが良い例で、超鈴音次元跳躍並行世界往還装置「渡界機」によって、自分の世界で起きた悲劇を回避するがためにやってくる。主人公のネギはその過去改変に対して、それは正しいのか?と悩みます。ユエなんかは悲劇は世界中に存在するし、どんな悲惨な未来であっても、それは変えるべきことではないと結論づけます。これに対する例外としては人類の存亡に関してのみと…。普通に考えたら、コレしかないんですよね。人間が意志を持った存在である以上、自分で決断した結果である世界にしか意味はありません。それでも、人類が滅亡してしまうような事態に関してはこのような倫理観も人間がいなくなってはどうしようもないので、回避すべき未来と言えます。

しかしながら、行為の是非を問う前に彼らの手段の方にも問題がある。彼らが行なっている過去改変とは何か?つまりはタイムトラベルとはある時間軸を起点に一つも同じ世界には辿りつかない、まぁSFが好きなら誰でも知ってる多世界解釈です。そう、彼らが救おうとした悲劇は、新たな平行世界を生むだけで本当に救おうと思っている人たちは救われないであろうということ。でも彼らの目的の面白いところはそれは事実として認めた上で、自分たちの行動によって、より救われた世界を増やすことを目的している点でしょう。感情的でないアンドロイドであるからこそ、目の前で死んでしまう一人の人間よりも全体で救えるより大多数の人間のために行動する。

話を整理していくと、ガーディアンはこれらの問題点を認めた上で、人類全体のために行動します。ようは世界一つだって必要とあらば見捨てます笑。それって救われる側にとっては、こちらの意志を無視している存在なわけだから許せない…となります。誰だって、自分を救ってくれない奴なんてどんなに素晴らしい大義名分を語ろうが、どうでもいいもんです。

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリアもまさに救われる側の意志の問題に触れる作品です。あーそういえば「虎よ、虎よ!」も読まないとダメですね笑。うーん…。


いろいろ書いてきましたけど、この作品で面白いのは、僕らが生きる現実を舞台に語られる物語だからでしょう。未来って本当に分からない。岡田斗司夫の名前が出てきたり、小川一水が登場したりと、実在する人物をもって、こうなるだろうだろうとする展開が描かれる。1999年に渡航する際にはノストラダムスと勘違いされないためにはどうすればいい?とアンドロイドに問われるのは笑うしかない。