『意識は傍観者である: 脳の知られざる営み』 デイヴィッド・イーグルマン

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)
意識にまつわる問題というか疑問はとても身近で、かつあまり考えないテーマだと思う。

意識がどんなものであるか?という問いは自分は主体的な存在なのか?という意味でもあるからこそ、そこに疑問を持つことや、自由意志の存在の否定に繋がる話はとてもしにくいことだと思う。この本ではいろんな脳の状態の症例から、脳がどのように機能しているかを説明してくれる本です。

意識とは脳の中の一部分でしかない

普段の私たちが思っている意識というのは、脳そのもののように感じていることが多い。しかしながら、意識は脳の中でも最終的な出力の結果に過ぎず、思考の多くの部分はプログラムされた多数のロジックによって構成されています。ほとんどの行動に意識は介在していません。そもそも一つ一つの動作に意識がコントロールしていたら、非常に時間がかかってしまうでしょう。

だからこそ感情が価値判断を決める機能を持っているというのは良く分かる話で、そこにはロジックがないのではなく、瞬間的に過去の蓄積から出される評価、つまり無意識的なロジックが隠れている。

意識はまだ未経験の状況に大しての新しい行動パターンをプログラムする際に必要となる存在なのです。これは新しいスポーツをやるときの感覚が一番分かりやすい。最初は考えて動いていても、いずれ考えなくても体が動くようになります。

認識の問題

自分の主観が、自分の目に見えている世界が、世界の真実であるかのように日々私たちは生きています。しかし、脳は過去のパターン認識を多用していて、現実にあることを実際にが正しく認識していません。こればっかりは具体的な症例がなければ普通の人間だと理解しにくいですが、多くの場合、脳は視覚情報のほとんどを今までの蓄積された記憶を元に認識しています。目はもちろん得られた情報を信号として送り出していますが、脳は推定されている結果と異なる部分のみを情報として用い、ほとんどは脳内によって構成された視覚情報として再現します。

現実にないものが見えるというのも、人間の脳がいかに実際の情報をきちんと処理していないかが分かる現象だと言えます。それくらい脳の認識というのは確かなものではないでのです。もちろん、これは脳の欠陥ではなく、処理のコストと時間の問題から生まれた仕組みに過ぎません。それが裏目にでるシチュエーションがときたま存在するというだけです。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

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自由意志の存在

この著者が面白いのは、こうやって様々な症例から分かってきている脳の構造から、自由意志の存在を完全にではないですが、ほぼないと結果から判断しています。つまり脳がもたらす行動というのは過去から現在の環境と自分自身の遺伝子がもたらした結果であると言えます。犯罪者が罪を犯すときに現代社会は犯罪者に自由意志があることを前提に刑法を定めています。しかしながら、自由意志がないとすればこのような仕組みには意味がありません。私たちが考えるべき、対処というのは犯罪者がどうやって再犯することのないようにするか?であると述べています。

人間の価値はどこにあるのか?っていうと自由意志があることに尽きると思うですが、私は「そもそも価値なんてない」と思っている立場なのでこの本は非常に面白かった。自分の存在のショボさに悩むことも、機械に対する優位性がないというこも、別にいいじゃないかって思ってます。すべてが幻想だったとしても、自分が生きていくことに変わりはありません。現実と幻想も人間には区別できません。

だからこそ楽しく生きることもできるはずです。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

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